【暦から学ぶ、この国の歴史と成り立ち】
ふづき(七月)も半ばの声を聞くと、梅雨明けのことが気にかかる。
瑞穂の国に豊かな恵みをもたらす雨ではあるが、梅雨明け前の大雨は、例年
被害が甚大であるからだ。「さみだれをあつめてはやし、、」のさみだれは、
五月雨と書くが、旧暦の五月のことであるから梅雨の大雨である。「五月晴れ」
は、したがってゴールデンウイークなどの行楽地報道などで見られる快晴の風
景ではなく「梅雨の晴れ間」である。梅雨に入れば、天気図で「入梅」の構図
はいともたやすく理解が出来る。しかし梅雨は明けてみないと、「梅雨明け」
を宣言できない。そこで「戻り梅雨」や「帰り梅雨」など気象予報士のエキス
キューズを助ける言葉が古来からあるのが面白い。
天候の話をしたいのではない。日本の暦は、本来、農業暦である。自然との
かかわりを神事で伝える稲作文化は、アジア特有の文化である。稲作は、民族
の命を支えてきた史上最大の生命産業と言えないだろうか。天皇陛下は、自ら
新嘗(にいいなめ)祭で稲を皇居の水田に植えられる。天皇家は、神事ととも
にある。誤解を恐れずにいえば神事に基づく御一家である。風水の事も、生活
に深く根ざした陰と陽、木火土金水(陰陽五行)に基づき宇宙の構成要素を考
えた古代人の智恵には違いない、その評価は別として。仏教、キリスト教伝来
以前の史実から、既に生きる術としての農業が、大きくそこに横たわる。そし
て深く先人達の生活に定着していた。歴史を遡り学ぶためには、これらをまず
受け止める必要がある。宗教問題でなくて、日本という国の成り立ちにおいて、
稲作と神事のかかわりを無視できない。これは、他方、歴史と神話とを混同さ
せかねない危険にも満ちている。
ウラル・アルタイ語族。遠くはトルコ、中央アジアからモンゴル、朝鮮半島、
日本列島の民族は、これに属する。言語の上では、否定しようもなく朝鮮半島
の人々とは同根である。ギクシャクしている日韓関係ではあるが、日韓友情年
の公式行事は予定通り行うとういう事で両国政府は一致した。賢明であるし、
当然だろう。「キムチ」や「唐辛子」は、苦手だと言われる方が「同根」を否
定されるかも知れないが、それでも「韓流」に影響されてハングルを学ぶ方が、
習得しやすさに気づかれるのも、証明を助けるかも知れない。
「魏史倭人伝」に出てくる「倭人」は、尊称ではない。中華思想に基づく
「蔑称」である。さて、「倭人」だが「日本人」をさすだけではない。本来、
「倭」には「朝鮮半島の南半分が含まれる」からだ。小職の郷里の大先輩、海
音寺潮五郎氏をして、本来、「朝鮮と日本は、英米の関係。」と言わしめる。
ならば、些細な事象で争わず、英米の利己的な面は学ばず、平和構築の実をあ
げる世界に冠たる「協働提案」など出来ないものだろか?それを強く思う。