【握手の東限とお辞儀の西限】
5月中旬からウズベキスタンが不透明な情勢になっている。個人的には日本
ウズベキスタン協会会員でもあり、市民の多くが犠牲になったことが残念であ
る。ウズベキスタンにも第二次世界大戦中や後に多くの日本人捕虜が労役に送
り込まれた。シベリア送りと違って事故死以外の人が、その後に無事の帰国を
遂げている。当時、多くの市民から労役中に、内緒で食料をもらったと多くの
旧日本兵が語っている。潜在的な親日国でもある。
中央アジアでは、唯一、旧国際協力事業団が作った日本センターがあり、日
本への関心も高い。かつて、大きな地震がこの国を襲ったが、日本人捕虜が建
設したオペラハウスは、びくともしなかった。そのことは、日本人への尊敬や
近親感としてこの国の人々に定着している。かえすがえすも今回のイスラム過
激派と当該政府の衝突で一般市民に多くの犠牲者が出たことは残念である。
さて、こんな話はいかがだろうか?民族学や博物学で著名な梅棹忠夫氏の著
作によれば、「お辞儀の文化の西限」はインドである。「握手とキスの文化の
東限」はアフガニスタンである。以前にも書いたが、アフガ二スタンは、交通
や文化・民族の十字路であった。「握手やキス」の習慣がアジアでもアフガニ
スタンで定着しているのは不思議でもなんでもないし、他方、「お辞儀」の習
慣が「インド」まで定着しているのもよく理解できる。「相手に触れて親愛の
情を示すこと」や「相手への尊敬をあらわすこと」の大切さを古代から往来の
中から人々は学んできたことだろう。
「キリスト教会」にある燭台。本来、仏さまの御灯明が東に行って燭台にな
った。本多美奈子が急性白血病で舞台がつとめられない「レ・ミゼラブル」の
「ジャン・バルジャン」は、西で御灯明が生まれなければ存在しない役柄だ。
パリのビクトル・ユーゴ通も生まれなかったかも知れない。国際理解は、多く
の産物をもたらし、相互に豊かな夢も見させてくれる。
「インド」。昔は大インドと誇れた領土だった。パキスタンは、つい数十年
前までバングラデシュと変わる東パキスタンと西パキスタンとに分かれていた。
その前は、同じくインドだった。後の分断は、宗教観の相互に相容れないもの
が引き起こした。インドの大きな三角形。この下半分にヒンズー教徒を、上半
分にイスラム教徒を集めようと為政者が考えた。結果、移動中にいざこざがお
こり、多くの者が命を落とした。その恨みや悲しみは、降り積もったままであ
る。カシミール紛争は、単なる領土問題ではない。「無理解」や「不寛容」が
氷河のようにぶつかったままなのだ、きっと。